2025年05月17日
ドミニク・ルノーとジュリアン・ティシエが自身
現代の時計でマイクロローターを見ることは希だ。時計愛好家たち(ウォッチメイキング史における小さな好奇心や楽しい欠点に感動する傾向のある人々のこと)にこよなく愛されているかにもかかわらず、マイクロローター式自動巻きムーブメントにはいくつかの重大な欠点があり、時計業界全体への普及を妨げてきた。しかし、伝説的なドミニク・ルノー(Dominique Renaud、元ルノー・エ・パピ、現オーデマ ピゲ ルノー&パピ、略称APRP)と30歳の若き才能ジュリアン・ティシエ(Julien Tixier)は、特許取得から70年を経て、このアイデアに革命を起こしたと自負している。
Dominique Renaud and Julien Tixier
ドミニク・ルノーとジュリアン・ティシエ、ジュウ渓谷にあるティシエの工房にて。
新ブランド、ルノー・ティシエの発表から解き明かすべきことは数多い。それは、ふたりの時計職人の経歴と、彼らが成し遂げた技術的偉業に深く踏み込んだものだ。彼らが “マンデー (月曜日)”と呼ぶこの時計は、卓越した技術を持つ独立系時計メーカーの力作であり、長期にわたる友情と徒弟関係(ルノーからティシエへ、そしてティシエからルノーもまた然り)を象徴している。
Julien Tixier's workshop
ジュリアン・ティシエの工房には、多くの書籍やモデルが展示されている。
Julien Tixier's workshop
また、ドミニク・ルノーの工房の看板もあり、ルノーがティシエと自分たちの作品に自信を持っていることがうかがえる。
Renaud Tixier "Monday"
ルノー・ティシエ “マンデー”。
間違いなく、この時計は、ほぼ完全に技術革新を物語る作品である。新しく生まれ変わったマイクロローター、Cal.RTIV2023は、彼らが“ダンサー”と呼ぶマイクロローターを搭載し、直径36.8mm×厚さ6.86mmながら約60時間のパワーリザーブを確保し、パラジウム製のスクリューテンプが毎時1万8000振動/時のテンポで時を刻む。時計本体はローズゴールドまたはホワイトゴールド製の40.8mm×11mmというサイズに、フロントとバックにサファイアクリスタルを備える。伝統的なマイクロローターを備えた時計としてはやや厚めである。しかし裏を返せば、これは伝統的なマイクロローターではないと気付く。最も重要なのは、そうした伝統的な設計に内在するいくつかの課題を解決していることだ(これについては後述する)。
価格(本記事公開時)は8万9750ドル(日本円で約1400万円)で、どう考えても大金ではあるが、ウォッチメイキング史の核となる要素を完全に再構築することから開発をスタートできるブランドはそうそうあるものではない。 彼らがこの作品で何を実現したのかを理解するためには、マイクロローターの歴史とその仕組みについて少し振り返ってみる必要がある。
マイクロローターに潜む歴史(と課題)
マイクロローター式自動巻きムーブメントの歴史を掘り下げるときには、いくつかの地雷の可能性をナビゲートしなければならない。どのような“戦争”でも、勝者側が歴史を遺す。そう、間違いなくユニバーサル・ジュネーブが圧倒的な勝者である。伝説的なユニバーサル Cal.215は1955年にポールルーターとして発表されたが、ビューレンとの法廷闘争により、これらの初期のムーブメントは“特許出願中”と表示された。1955年5月、同社はほぼ同じデザインの特許を取得した…ビューレンは1枚上手だったらしい。11カ月後、ユニバーサルは新型ムーブメントを発表したが、1958年5月15日まで特許を取得することができなかった。この時、彼らはビューレンとの訴訟で和解し、この技術で製造したムーブメント1個につき4スイスフランをビューレンに支払った。
Büren micro-rotor
ビューレンのマイクロロータームーブメント。Photo courtesy of Monochrome
しかし、彼らは何を争っていたのだろうか? 手巻きムーブメント(主ゼンマイが収まる香箱にリューズを巻き上げることでエネルギーを蓄え、調速された周期でテンワを往復運動に変換する)がはるかに一般的であった当時、自動巻きムーブメントの技術革新のインパクトは非常に大きかった。ロレックスは1931年に初の両方向回転式ローターの特許を取得している。しかし、中央に巻き上げローターを支える軸が設置され、ムーブメントの全幅を巨大なローターが覆ったため、当然ながら時計は厚くなった。マイクロローター(あるいはユニバーサルが称するところの“マイクローター”)は、回転錘を縮小してムーブメントのほかの部分と同一の高さに配置することでこの問題を解決し、その結果、より薄い自動巻き時計が実現した。
コール・ペニントンが執筆したWeek on the Wristより、以下抜粋。“ポーラルーターは、1948年に導入されたCal.138 SSバンパーを搭載し、1954年にデビューを飾った。このキャリバーは1万8000振動/時で動作し、錘付きバンパーを使用して、ムーブメントを片方向に巻上げる。直径28mmで、最小限の仕上げしか施されていないため、素朴な印象を受けるだろう。ポールルーターはこの点がすぐにアップグレードされた。Cal.138 SSが採用されたちょうど1年後に、マイクロローターを搭載したCal.215に入れ替えられた”
ところが、マイクロローターにはいくつかの重大な欠点がある。例えば、ムーブメントの横のスペースに収めるためにほかの部品を小さくする必要があるなど、簡単には修正できないものもある。主ゼンマイやヒゲゼンマイはしばしばその対象となり、パワーリザーブや、計時精度が犠牲となる。しかし、通常の自動巻き時計でそのような問題をクリアできたとしても、ムーブメントの巻き上げが不十分なことが分かれば、問題はさらに大きいことがわかるだろう。
マイクロローターはその名のとおり小さい。つまり、ピボットを中心に回転する小さな錘が与える回転エネルギーは極めて小さく重い(慣性モーメントが小さい)ため、錘がローターに回転を起こさせるには(静止摩擦を克服するためには)大量のエネルギー(と運動量)が必要になる。キーボードを打ったり、腕の位置を調整したりするような小さな動きでは、通常のローターを巻き上げることはできたとしても、マイクロローターを、軸を中心に回転させるには不十分なことがある。マイクロローターのムーブメントが完全に巻き上げられることはほとんどなく、巻き上げようと思えば多くの運動量が必要になることは、時計メーカー(および愛好家)のあいだではかなり有名な事実である。
この問題を解決するにはいくつかの方法があるが、どれも理想的ではない。慣性モーメントを大きくするために質量の大きい素材を使うこともできるが、そうするとローターのベアリングとローター軸により大きな負荷がかかる。これはポーラルーターでよくある故障の原因だ。主ゼンマイを弱めて巻き上げをよくすることもできるが、そうすると今度はパワーが低下する。あるいは、1回の巻き上げでより多くのパワーを得るために歯車を増やすこともできるが、結局は自転車の低速ギアように、巻き上げても十分なパワーを得ることができなくなるのである。
Biver micro-rotor
昨年、Hands-On記事に登場したマイクロロータームーブメントを搭載したビバー カリヨン・トゥールビヨン。
これらすべての問題が、普及を妨げている。理論上、パワー不足が理由でマイクロローター式の複雑機構を作ることは難題とされている。複雑機構による動力消費量の増加は、パワーリザーブを大幅に減少させるはずだ。ビバー カリヨン・トゥールビヨン、そしてより顕著なのは、パテックのCal.240系を搭載するノーチラス Ref.5712、セレスティアル Ref.6102P、そしてワールドタイムやパーペチュアルカレンダーのいくつかは、その数少ない例外である。ヴォーシェ社はいまでもパルミジャーニ・フルリエやショパールのようなブランドのためにマイクロローターを製造しているが、ピアジェはマイクロローター激戦区の一角を担っていた(そして生き残ったブランドとして、間違いなく名実ともに勝者であろう)し、パテック フィリップやブルガリも同様にマイクロローターを製造しているが(バルチックのMR01は言うまでもない)、マイクロローターそのものは、率直に言って主流ではない。これらの問題を解決することはできるのだろうか?
時計師たち
数週間前、私はニヨンにあるルノーの工房を訪ねた。言葉の壁があったにもかかわらず(フランス語を学ぶ必要性を痛感した)、彼の時計に対する情熱、そして率直に言って、彼のすべてに大きな影響を受けた。また、天才時計師の伝説的存在であり、その友情、指導、支援によって、過去40年間の時計製造において最も重要な発展を遂げ、最も著名なブランドを設立した人々の成長を支えた人物にようやく会えたことに、私はちょっとした感激を隠せなかった。私たちは、今後私が執筆予定の記事や、彼が大きな役割を果たした記事など、さまざまなことを語り合った。彼はキャリアの初期について、まるで昨日の出来事のような勢いで延々と話してくれた。しかし、なぜ彼がそのような賞賛に値する人物なのかを知らないかもしれない人たちに、彼の過去を説明するために少し寄り道をしてみよう。
Renaud et Papi
1989年、従業員40人にまで拡大したル・ロックルの工房。Photo courtesy Dominique Renaud.
ドミニク・ルノーとジュリオ・パピは1984年にオーデマ ピゲで出会い、そこでハイコンプリケーションやグランドコンプリケーションの時計に携わることを夢見ていた。しかし、AP社でゆっくりと出世していくだけでは飽き足らず、ふたりは独立し、1986年にル・ロックルにルノー&パピSAを設立した。誰が聞いても、それは狂気の沙汰であり、その計画は大失敗に終わり、ふたりはすごすごと所属していた会社に出戻るはずだった。ほとんどの主要ブランドは、“クォーツ危機”から立ち直れず、外部の助けを借りることはおろか、プロジェクトの資金を調達するのもままならなかった。しかし、ごく一部の時計メーカーは、高度な複雑機構に対する需要が高まっていることを察知していたが、同時にその需要を満たす組織の知見が不足していることも認識していた。そこにルノーとパピと寄せ集めの仲間たちが登場したのである。
Il Destriero Scafusia
IWC イル・デストリエロ・スカフージアは、ルノー・エ・パピが手がけたIWC 3770の最終進化形であり、ロベール・グルーベルとの関係の始まりでもある。
ふたりの功績については今後の記事で紹介するとして、ふたりがIWCのグランドコンプリケーション Ref. 3770のリピーターモジュールを開発したことがきっかけとなり、事業がスタートした。APRPは、バート・グローネフェルドが成功を収めただけでなく、ロバート・グルーベルとスティーブン・フォルセイを引き合わせた場でもあった。長年にわたり、ルノーと彼のチームは(あるいは単独で)、オーデマ ピゲ、ブレゲ、ユリス・ナルダン、IWC、ジャガー・ルクルト、A.ランゲ&ゾーネ、ジラール・ペルゴ、パルミジャーニ、カルティエ、フランク・ミュラー、ハリー・ウィンストンなど、ブランドの最も複雑なモデルの数々を担当してきた。1992年、ルノー・エ・パピは再びAPの傘下に入り、APRPを設立、ルノーは2000年に同社を引退した。しかし、彼は決して仕事をやめることはなかった。
Dominique Renaud and Julien Tixier
ドミニク・ルノーとジュリアン・ティシエ、ジュウ渓谷にあるティシエの工房にて。
新ブランド、ルノー・ティシエの発表から解き明かすべきことは数多い。それは、ふたりの時計職人の経歴と、彼らが成し遂げた技術的偉業に深く踏み込んだものだ。彼らが “マンデー (月曜日)”と呼ぶこの時計は、卓越した技術を持つ独立系時計メーカーの力作であり、長期にわたる友情と徒弟関係(ルノーからティシエへ、そしてティシエからルノーもまた然り)を象徴している。
Julien Tixier's workshop
ジュリアン・ティシエの工房には、多くの書籍やモデルが展示されている。
Julien Tixier's workshop
また、ドミニク・ルノーの工房の看板もあり、ルノーがティシエと自分たちの作品に自信を持っていることがうかがえる。
Renaud Tixier "Monday"
ルノー・ティシエ “マンデー”。
間違いなく、この時計は、ほぼ完全に技術革新を物語る作品である。新しく生まれ変わったマイクロローター、Cal.RTIV2023は、彼らが“ダンサー”と呼ぶマイクロローターを搭載し、直径36.8mm×厚さ6.86mmながら約60時間のパワーリザーブを確保し、パラジウム製のスクリューテンプが毎時1万8000振動/時のテンポで時を刻む。時計本体はローズゴールドまたはホワイトゴールド製の40.8mm×11mmというサイズに、フロントとバックにサファイアクリスタルを備える。伝統的なマイクロローターを備えた時計としてはやや厚めである。しかし裏を返せば、これは伝統的なマイクロローターではないと気付く。最も重要なのは、そうした伝統的な設計に内在するいくつかの課題を解決していることだ(これについては後述する)。
価格(本記事公開時)は8万9750ドル(日本円で約1400万円)で、どう考えても大金ではあるが、ウォッチメイキング史の核となる要素を完全に再構築することから開発をスタートできるブランドはそうそうあるものではない。 彼らがこの作品で何を実現したのかを理解するためには、マイクロローターの歴史とその仕組みについて少し振り返ってみる必要がある。
マイクロローターに潜む歴史(と課題)
マイクロローター式自動巻きムーブメントの歴史を掘り下げるときには、いくつかの地雷の可能性をナビゲートしなければならない。どのような“戦争”でも、勝者側が歴史を遺す。そう、間違いなくユニバーサル・ジュネーブが圧倒的な勝者である。伝説的なユニバーサル Cal.215は1955年にポールルーターとして発表されたが、ビューレンとの法廷闘争により、これらの初期のムーブメントは“特許出願中”と表示された。1955年5月、同社はほぼ同じデザインの特許を取得した…ビューレンは1枚上手だったらしい。11カ月後、ユニバーサルは新型ムーブメントを発表したが、1958年5月15日まで特許を取得することができなかった。この時、彼らはビューレンとの訴訟で和解し、この技術で製造したムーブメント1個につき4スイスフランをビューレンに支払った。
Büren micro-rotor
ビューレンのマイクロロータームーブメント。Photo courtesy of Monochrome
しかし、彼らは何を争っていたのだろうか? 手巻きムーブメント(主ゼンマイが収まる香箱にリューズを巻き上げることでエネルギーを蓄え、調速された周期でテンワを往復運動に変換する)がはるかに一般的であった当時、自動巻きムーブメントの技術革新のインパクトは非常に大きかった。ロレックスは1931年に初の両方向回転式ローターの特許を取得している。しかし、中央に巻き上げローターを支える軸が設置され、ムーブメントの全幅を巨大なローターが覆ったため、当然ながら時計は厚くなった。マイクロローター(あるいはユニバーサルが称するところの“マイクローター”)は、回転錘を縮小してムーブメントのほかの部分と同一の高さに配置することでこの問題を解決し、その結果、より薄い自動巻き時計が実現した。
コール・ペニントンが執筆したWeek on the Wristより、以下抜粋。“ポーラルーターは、1948年に導入されたCal.138 SSバンパーを搭載し、1954年にデビューを飾った。このキャリバーは1万8000振動/時で動作し、錘付きバンパーを使用して、ムーブメントを片方向に巻上げる。直径28mmで、最小限の仕上げしか施されていないため、素朴な印象を受けるだろう。ポールルーターはこの点がすぐにアップグレードされた。Cal.138 SSが採用されたちょうど1年後に、マイクロローターを搭載したCal.215に入れ替えられた”
ところが、マイクロローターにはいくつかの重大な欠点がある。例えば、ムーブメントの横のスペースに収めるためにほかの部品を小さくする必要があるなど、簡単には修正できないものもある。主ゼンマイやヒゲゼンマイはしばしばその対象となり、パワーリザーブや、計時精度が犠牲となる。しかし、通常の自動巻き時計でそのような問題をクリアできたとしても、ムーブメントの巻き上げが不十分なことが分かれば、問題はさらに大きいことがわかるだろう。
マイクロローターはその名のとおり小さい。つまり、ピボットを中心に回転する小さな錘が与える回転エネルギーは極めて小さく重い(慣性モーメントが小さい)ため、錘がローターに回転を起こさせるには(静止摩擦を克服するためには)大量のエネルギー(と運動量)が必要になる。キーボードを打ったり、腕の位置を調整したりするような小さな動きでは、通常のローターを巻き上げることはできたとしても、マイクロローターを、軸を中心に回転させるには不十分なことがある。マイクロローターのムーブメントが完全に巻き上げられることはほとんどなく、巻き上げようと思えば多くの運動量が必要になることは、時計メーカー(および愛好家)のあいだではかなり有名な事実である。
この問題を解決するにはいくつかの方法があるが、どれも理想的ではない。慣性モーメントを大きくするために質量の大きい素材を使うこともできるが、そうするとローターのベアリングとローター軸により大きな負荷がかかる。これはポーラルーターでよくある故障の原因だ。主ゼンマイを弱めて巻き上げをよくすることもできるが、そうすると今度はパワーが低下する。あるいは、1回の巻き上げでより多くのパワーを得るために歯車を増やすこともできるが、結局は自転車の低速ギアように、巻き上げても十分なパワーを得ることができなくなるのである。
Biver micro-rotor
昨年、Hands-On記事に登場したマイクロロータームーブメントを搭載したビバー カリヨン・トゥールビヨン。
これらすべての問題が、普及を妨げている。理論上、パワー不足が理由でマイクロローター式の複雑機構を作ることは難題とされている。複雑機構による動力消費量の増加は、パワーリザーブを大幅に減少させるはずだ。ビバー カリヨン・トゥールビヨン、そしてより顕著なのは、パテックのCal.240系を搭載するノーチラス Ref.5712、セレスティアル Ref.6102P、そしてワールドタイムやパーペチュアルカレンダーのいくつかは、その数少ない例外である。ヴォーシェ社はいまでもパルミジャーニ・フルリエやショパールのようなブランドのためにマイクロローターを製造しているが、ピアジェはマイクロローター激戦区の一角を担っていた(そして生き残ったブランドとして、間違いなく名実ともに勝者であろう)し、パテック フィリップやブルガリも同様にマイクロローターを製造しているが(バルチックのMR01は言うまでもない)、マイクロローターそのものは、率直に言って主流ではない。これらの問題を解決することはできるのだろうか?
時計師たち
数週間前、私はニヨンにあるルノーの工房を訪ねた。言葉の壁があったにもかかわらず(フランス語を学ぶ必要性を痛感した)、彼の時計に対する情熱、そして率直に言って、彼のすべてに大きな影響を受けた。また、天才時計師の伝説的存在であり、その友情、指導、支援によって、過去40年間の時計製造において最も重要な発展を遂げ、最も著名なブランドを設立した人々の成長を支えた人物にようやく会えたことに、私はちょっとした感激を隠せなかった。私たちは、今後私が執筆予定の記事や、彼が大きな役割を果たした記事など、さまざまなことを語り合った。彼はキャリアの初期について、まるで昨日の出来事のような勢いで延々と話してくれた。しかし、なぜ彼がそのような賞賛に値する人物なのかを知らないかもしれない人たちに、彼の過去を説明するために少し寄り道をしてみよう。
Renaud et Papi
1989年、従業員40人にまで拡大したル・ロックルの工房。Photo courtesy Dominique Renaud.
ドミニク・ルノーとジュリオ・パピは1984年にオーデマ ピゲで出会い、そこでハイコンプリケーションやグランドコンプリケーションの時計に携わることを夢見ていた。しかし、AP社でゆっくりと出世していくだけでは飽き足らず、ふたりは独立し、1986年にル・ロックルにルノー&パピSAを設立した。誰が聞いても、それは狂気の沙汰であり、その計画は大失敗に終わり、ふたりはすごすごと所属していた会社に出戻るはずだった。ほとんどの主要ブランドは、“クォーツ危機”から立ち直れず、外部の助けを借りることはおろか、プロジェクトの資金を調達するのもままならなかった。しかし、ごく一部の時計メーカーは、高度な複雑機構に対する需要が高まっていることを察知していたが、同時にその需要を満たす組織の知見が不足していることも認識していた。そこにルノーとパピと寄せ集めの仲間たちが登場したのである。
Il Destriero Scafusia
IWC イル・デストリエロ・スカフージアは、ルノー・エ・パピが手がけたIWC 3770の最終進化形であり、ロベール・グルーベルとの関係の始まりでもある。
ふたりの功績については今後の記事で紹介するとして、ふたりがIWCのグランドコンプリケーション Ref. 3770のリピーターモジュールを開発したことがきっかけとなり、事業がスタートした。APRPは、バート・グローネフェルドが成功を収めただけでなく、ロバート・グルーベルとスティーブン・フォルセイを引き合わせた場でもあった。長年にわたり、ルノーと彼のチームは(あるいは単独で)、オーデマ ピゲ、ブレゲ、ユリス・ナルダン、IWC、ジャガー・ルクルト、A.ランゲ&ゾーネ、ジラール・ペルゴ、パルミジャーニ、カルティエ、フランク・ミュラー、ハリー・ウィンストンなど、ブランドの最も複雑なモデルの数々を担当してきた。1992年、ルノー・エ・パピは再びAPの傘下に入り、APRPを設立、ルノーは2000年に同社を引退した。しかし、彼は決して仕事をやめることはなかった。
Posted by egg777 at 17:18│Comments(0)